ひねもすのたり

ふつうの人間の備忘録。ちょっと個性の強いせんせいの独り言記録。

授業づくりネットワーク誌を読んで②

朝、新聞を読むように一日数記事読んでみる。

そして、膨大な雑誌の量なので自分が今引っかかる記事を読む。

自分が興味あって選んだものは面白いことが多いと感じる。

今日はこれ。

【創刊号 1988.4】『授業づくりネットワーク運動の提唱・藤岡信勝

授業づくりネットワークの3つの柱については見聞きしていたものの、ご本人が書かれたもので読んだのは初めてでその3つの柱を読むこと自体が自分にとってワクワク感が体の中から溢れてきているのを感じた。

気になった部分は「〈第三の柱〉文体革新の原則」だった。

書いた当人にしかわからない独善的表現。わかりにくい実践報告。こういうものではなく、特別の予備知識がなくても、スッキリと分かる文章を書く。これが文体革新の原則である。

先日雑誌原稿を書く機会があった。この部分が一番苦しんで書いた部分であり、また一番学びになった部分でもあった。自分で書いた文章を一度誰かの、それも読むだけでなく各力が高くバランスが取れている人に見てもらう。直してもらうと、自分の意図と違うことに添削が入る部分もあり葛藤することもある。ある人は、自分の書いた文章がこうも添削され、変わるのなら書かない決断も大事だ、何でも添削を受けるのは違うと言っていた人も知り合いにいた。その言葉を聞いて自分はどうなのだろうと考え続けている。ただ、添削があっても伝えたいこととのバランス自信のその時の感情が大事なのだと思う。先日書いた原稿とはそういう自身の葛藤との戦いの部分も会っただけに、この記事のこの部分が引っかかった。

また、逆に、今年は雑誌に数回書評を書いているがそちらの原稿はいつも直し無しで通ることが多い。この差に戸惑うこともある。笑

 

もう一つは、「4「書くこと」の意味」という見出しだった。

菅野与四夫氏の書くことについての思いとエピソードが書かれている。その内容を踏まえ、

「書く」ことの意味づけは一人ひとり違っている。ちがってよい。

菅野氏は生きるために書いている、自分の授業の腕を上げるために書く人、実践記録を残し次の実践へつなげるために書く人…などなど。

この夏休み前まで、自分も授業記録や子どもとの関わり、個人通信などいろいろなものを書き続けてきた。もう一度なんのたのに書いていたのか、自分とぼんやり対話しながら、それぞれの各意味について問い直しておこうと思った休みの日だった。